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郷土 もがみ(最上)とは
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人口と世帯  ◆歴史 概要 市町村シンボル 

 最上地方は、山形県の最北端に位置し、鳥海山や月山、神室連峰などの山々に囲まれた地域です。新庄市を中心に金山町、真室川町、最上町、舟形町、鮭川村、戸沢村、大蔵村の1市4町3村によって構成されています。
 


もがみの人口と世帯

地区名 人 口 世帯数 平成29年
合計
新 庄 市 17,362人 19,106人 36,484人 13,884世帯 7月末現在
金 山 町 2,777人 2,941人 5,718人 1,776世帯 7月末現在
最 上 町 4,342人 4,554人 8,896人 2,890世帯 7月31日現在
舟 形 町 2,720人 2,835人 5,555人 1,886世帯 7月31日現在
真 室 川 町 3,829人 4,227人 8,056人 2,787世帯 7月31日現在
大 蔵 村 1,667人 1,710人 3,377人 1,086世帯 7月末現在
鮭 川 村 2,109人 2,255人 4,364人 1,356世帯 9月1日現在
戸 沢 村 2,282人 2,459人 4,741人 1,616世帯 7月末現在
総人口
37,088
40,087人 77,191人 27,281世帯 上 記 現 在
 参考資料:「各市町村広報誌」より 更新日:平成29年9月19日

◆新庄市◇ まつりと雪のふるさと新庄
歴 史
 新庄地方は、一万年以上も前、すでに人々が住んでいました。東山遺跡や南野遺跡出土の遺物がこのことをしめしています。縄文時代の遺跡は、さらに数を増し、宮内遺跡にみるように、人々は平野の中央に村をつくって住むようになりました。
 奈良、平安時代、本合海附近に大きな集落があったことが、同地の古竈址からうかがうことができます。鎌倉・室町には、各所に有力な土豪が現れ、それぞれ楯を築いて村を開きました。鳥越楯・萩野片平楯・角沢楯・海藤楯は、この時代のものでしょう。戦国時代末期、これらの楯主は、山形の大名最上義光の支配下にはいりました。この時代、当地に日野右京なる武将がおり、後の沼田城附近に城をかまえていました。
 慶長19年(1614)、当地方を支配していた清水氏が滅び、遺領は日野将監が管理することになり、将監は沼田城を居城としたので、新城(庄)はその城下町として大いに発展しました。
 元和8年(1622)、最上家改易にともない、戸沢政盛がこの地方を領(高6万石、後6万8,200石)することになり、その支配は明治初年まで続き、新庄はその城下町として整備されましたが、その名残りは街路や寺社の配置、鉄砲町・鍛治町等の旧町名にみることができます。
 明治戊辰戦争では、庄内勢に攻められ、新庄の城と街は灰尽に帰しました。尚、幕末当時の新庄城の絵図が新庄城跡、現最上公園入口に設置されています。明治4年、廃藩置県により、一時新庄県を称するが、後、山形県に合併。同22年市制町村制施行により新庄町となります。その後、昭和23年稲舟村を合併し、翌24年4月市制を施行。さらに、同30年に萩野村、翌年には八向村を合併し、名実ともに最上の中核都市として躍進を続けています。                                  
参考資料:「四季のまつり」より
■概 要
 日本三大急流のひとつとして知られる最上川。
 奈良時代から、舟運によって日本海側と太平洋側を結ぶ交通と物資輸送の大動脈として、大いににぎわっていました。松尾芭蕉が『おくの細道』の旅で、門人の曽良を伴い新庄を訪れたのは、元禄2年(1689年)の夏の暑い日のこと。新庄では、城下きっての富商・渋谷甚兵衛(風流)の風流亭に2泊。甚兵衛の本家・渋谷九郎兵衛(盛信)ら地元の俳人6名と、歌仙1巻36句を巻いています。それから300年余り、新庄市は国道13号と47号、JR奥羽本線と陸羽東・西線の道路と鉄路それぞれが交差する「東北の十字路」として、「人とモノが行き交うまち」として栄えてきました。そして今、時代は新たに高速交通時代に変わろうとしています。道路では、将来、東北中央自動車道として位置づけされている「尾花沢新庄道路」と「国道47号新庄南バイパス」の一部が、平成11年度供用開始となりました。 さらに、「新庄北道路」「新庄酒田道路」「石巻新庄道路」が、事業化に向けて動き出しています。また、鉄路では、山形県北の長年の夢であった山形新幹線の新庄延伸が実現し、平成11年12月「新庄発←→東京行」の山形新幹線が開業しました。
参考資料:「新庄市ホームページ」より
■市のシンボル
◆市の花 「あじさい」 
 市の木モミと同じく、昭和59年に市の花に選定された。順応性に富み、たくましい生命力を持つアジサイは、雪国新庄人の気質を象徴する。

◆市の木 「モミの木」
 昭和59年の市制施行35周年を記念して市民アンケートから選ばれたもので新庄の大地に深く根を張り、一直線にそびえるモミの姿は、未来に躍進する新庄の希望と愛情を表します。

◆金山町◇ 美しい自然・清い心の町 かねやま
■歴 史
 往古は詳細に判明しないが、大永より天文年間は鮭延領として、秋田仙北小野寺氏の一門佐々木氏に属したが、天正9年最上出羽守少将義光は佐々木氏を破り、金山の地に丹与惣左エ門政直をして金山城を築城させ仙北の備えとしました。
 元和8年に至り最上氏退転、戸沢政盛新庄藩主に封ぜられてより以来、明治4年の廃藩置県に至るまで250年間、戸沢氏の領するところとなりました。
  戸沢藩政時代は現在の金山及び及位を併せて金山郷といい、金山に代官所を置き、その下に組頭の制度を設けました。明治4年廃藩置県が行われ、金山に戸長,副戸長を置きました。 同17年、金山、山崎、上台、安沢、下野明、有屋、中田の7ヵ村組合となり,金山戸長の支配をうけ、朴山、飛森、谷口銀山、漆野は朴山戸長の支配をうけたが、明治22年の市町村制実施により2組合をあわせて金山村となり、各村は大字となりました。
  大正14年1月1日に町制を施行して以来、合併することなく現在の金山町の姿になっています。
参考資料:「金山町ホームページ」より
■概 要
 山形県北部、秋田県境に金山町はあります。山形新幹線の終着駅、新庄から山形県最上郡を縦貫する国道13号線をさらに北上し、秋田県雄勝町に隣接する金山町。面積の約8割を山林が占め、樹齢200年を越す「金山杉」の巨木の森に囲まれた静かな山里に、約7,000人が暮らしています。
 2001年2月、金山町が取り組んでいる 「街並み(景観)づくり100年運動」が、2000年度の毎日・地方自治大賞 「最優秀賞」 を受賞しました。
 1878年イギリスの旅行作家イザベラバードは金山町を訪れ、こう記しています。「今朝、新庄を出てから、険しい尾根を越えて非常に美しい、風変わりな盆地に入った。ピラミッド形の杉の林で覆われ・・・(中略)、その麓に金山の町がある。ロマンチックな雰囲気の場所である。」(日本奥地紀行より)
 100年経ってもこの風景は変わっていません。そしてさらに100年先に向けて、1984年「街並み(景観)づくり100年運動」が提唱され、美しい街並みづくりはゆっくりと始まったのです。
 街を抱き、人々を包む山々の緑の匂い、小鳥たちのさえづり、虫の音、夜空を覆う満天の星、杉と白壁の金山型住宅、街をめぐる石積みの水路、家々のまわりに咲く花々、人懐こい町民の笑顔・・・。
 守るべきものと育むべきもの。変わらぬことのない自然と街並みが織りなす時の遺産。私たちが住む金山町は、この情景を100年の誇りを持って次の世代へ引き継いでいくことが大切なことなのだと信じています。
参考資料:「森の便り」より
町のシンボル
  ◆町の木 「杉」


◆真室川町◇ ゆめ・輝き・やすらぎ空間 真室川
歴 史
 大永4年(1535)佐々木貞綱が鮭延荘を賜り、鮭川にそった内町の高台に鮭延城を築城以後佐々木氏は鮭延氏を名乗る。その子鮭延秀綱は、天正9年(1581)最上義光の家臣となり、この地は最上領と定まった。元和8年(1622)最上家は改易となり、戸沢氏の領有として明治維新に及んだ。明治4年(1871)廃藩置県により、真室川全域は新庄県に入り、同年、山形県に合併される。明治9年(1876)置賜・山形・酒田の三県が合併し、山形県となる。
 明治22年(1889)市制・町村制が施行され、川の内村・内町村・新町村・平岡村・木の下村が合併し、真室川村となり、役場を新町村におく。大沢村・差首鍋村が合併し安楽城村に、及位村・大滝村・釜淵村が合併し、及位村となる。明治37年(1904)奥羽本線新庄院内間の鉄道開通し、新町(真室川)・釜淵・及位の各駅が開業した。大正5年(1916)新町駅を真室川駅と改称。大正14年(1925)真室川役場は、新町から駅前に移転した。昭和5年(1930)料亭 「山水」が真室川に建ち、ここから「真室川音頭」の流行が始まった。昭和11年(1936)真室川民間飛行場の整備工事がはじまるが、昭和15年(1940)には、陸軍飛行場に転用され、大拡張工事が着工した。昭和20年(1945)真室川飛行場を中心に米軍の空襲を受け、太平洋戦争が終わった。昭和22年(1947)真室川・安楽城・及位・釜淵に中学校が新設される。
 昭和25年(1950)真室川村が町制を施行、初代町長に松沢雄蔵が就任した。昭和29年(1954)4月、真室川町・安楽城村・及位村の三ヵ町村による、町村合併に関する最初の公式な会議が持たれた。かねてより生産物資の流通や人的交流などからお互いに交錯しあって、人情、風俗、慣習等は共通し、条件の似通った集団地であった。以来、各関係町村間で20回にわたる協議会が持たれ、いよいよ昭和31年(1956)に真室川町・及位村・安楽城村は合併し、新真室川町が誕生、初代町長に、小松政吉が就任した。

概 要
 真室川町は、昭和31年9月30日、新生真室川町が誕生。山形県の最北端に位置し、北部は秋田県、西部は飽海郡と接しています。町の総面積は山形県の4.0%、最上地域の20.8%を占めています。西側と北側及び東側の三方が急峻な山地で、南部には鮭川盆地に連続し開放的な地形をなしています。町土の大部分が山林地帯となっています。
参考資料:「真室川町要覧」より
町のシンボル
  ◆町の花 「梅」 ◆町の木 「梅の木」


◆最上町◇ 心あたたまる人と自然の最上町
歴 史

概 要
 最上町は、山形県東北部に位置し、秋田県雄勝町、宮城県鳴子町などに隣接している農林業と観光の町です。町域中央部には小国盆地が開けているものの、大部分は奥羽山脈に属する山岳・広陵地帯で最北端には、標高1367mの小又山、最南端には1075mの翁山がそびえています。気候的には寒冷地多雨で、夏季には東風が吹きぬけ、冬季は多雪。四方が峰によってさえぎられているため、かつては「小国」と呼ばれました。基幹産業は、稲作が中心です。
参考資料:「最上町ホームページ」より
町のシンボル
  ◆町の花 「りんどう」 ◆町の木 「梅」


◆舟形町◇ 若あゆと古代ロマンの里ふながた
歴 史

概 要
 山形県の北部、最上郡のほぼ南端に位置し、東西27.4kmと細長い地形で35の集落からなっている。町の中央は東経140度29分、北緯38度41分。本町を貫流する小国川と最上川の2河川は水量豊富で水稲中心の農業発展に寄与している。地層は第3紀層にあり、水成岩で亜炭を含み、台地は洪積層が多く肥沃な地であり、気候は雨量も多く多雪地帯であるが、四季感に富んだ自然の美しさはまた、格別である。
参考資料:「舟形町要覧」より
町のシンボル
  ◆町の花 「こぶし」 ◆町の木 「えんじゅ」


◆鮭川村◇ 清流ときのこと心のふる里 さけがわ
歴 史
概 要
 鮭川村は、山形県の北部、最上圏域北西部に位置し東西20km、南北12kmにわたる総面積122.32km2の農山村です。東部は新庄市、南部は戸沢村、北部は真室川町、西部は飽海郡平田町に隣接しており、県都山形市の北方71kmの所にあります。
 村土面積は、12,232haで広さは県内第32位、県土面積の1.3%にすぎない。このうち65%が森林で占められている。中央部を鮭川が貫流し、東部は比較的平坦地であるが西部は起伏の激しい山間部で最も高い与蔵沼付近で702.3mある。地域区分は、鮭川、豊田、豊里の3ブロックに分けられる。一般的には鮭川地域と大豊地域に大別される。3ブロックの面積には大きく差があり、豊田地域は豊里地域の3倍を越える広さを有する。
参考資料:「鮭川村ホームページ」より
村のシンボル
  ◆村の花 「みちのくひめゆり」  ◆村の木 「もみじ」


◆戸沢村 豊かな自然に四季のかおりと舟唄のこだまする村をつくろう
歴 史
 戸沢村往古は北部地域の鮭延氏と清水大蔵公、それに庄内の武藤氏の三巴の激戦地であり、中部地域は山形県の文化移入路として最上川に沿って早くから開けていました。南部地域は山岳宗教の華やかな時代には、出羽三山の登山口として発展史上特異な地域でもあります。今から約400年程前の元和8年、戸沢政盛公が常州松岡城から新庄に移封されて以来、およそ300年間新庄藩の所領として、明治維新に及び、明治4年廃藩置県によって新庄県に属し、同9年山形県に編入されました。昭和28年の町村合併促進法により産業、経済、生活環境等で密接な関係にあった戸沢村、古口村、角川村の三ケ村が昭和30年4月1日に合併し古口村として発足しました。同年5月1日に村名公募により戸沢村と改称して今日に至っています。
参考資料:「戸沢村要覧」より
概 要
 戸沢村は山形県の北部・最上地方に位置し、東西は約18km、南北に23kmの地域で、東南には新庄市と大蔵村、北は鮭川村、西は庄内地方の立川町と松山町に接しています。山形県を南北に貫く出羽丘陵の山々と、新庄盆地縁辺の平坦地から戸沢村の地形は形成されています。村のほぼ中央を、日本三大急流の一つ最上川が東西に貫き、庄内地方を経て日本海に注いでいます。集落域は標高30m〜500mの高原地帯にあります。
 面積は261.25km2あり、山形県の約3%、最上郡の14.5%にあたり、その83.3%が山林原野(大半が国有林野)で占められ、農用地が6.4%、その他河川・宅地・雑種地等が9.7%となっています。
参考資料:「戸沢村ホームページ」より
村のシンボル
  ◆村の花 「ヒメサユリ」  ◆村の木 「山ノ内杉」


◆大蔵村 風水にふれる里 自然とこころがかようむら 
歴 史
 村の歴史は古く、合海の鶴の子地区で縄文時代前期といわれる縄文土器が出土しています。また、村内で人間の営みを示す遺跡としては、縄文時代中期と推測される白須賀遺跡や、縄文時代後期とされる上竹野遺跡が発見されており、古くから祖先が当地で生活をしていたことを示しています。
 中世に入ると、文明8年(1476年)9月に山形城主斯波兼頼の嫡子直家の6男、成沢城主兼義の子・孫次郎満久公が成沢(山形市成沢)より本村に入り、山水明媚な清水(比良台)の地を選んで築城し、清水氏と称しています。以降、清水家は最上川舟運を統制下に置き、慶長19年(1614年)まで、7代138年間にわたって最上地方の中心地として栄えました。現在は、最上川左岸の比良に城址が残っています。
 明治4年7月の廃藩置県の際には、新庄県に属し、同年11月に山形県に合併されました。そして明治21年町村制の布告、翌年の施行により、清水町村・合海町村・南山村・赤松村の4村を合併し現在の大蔵村となり、前村名を大字としています
概 要
 大蔵村の総面積は211.59キロ平方メートルで、そのうち山林面積が 180キロ平方メートル、全体の85パーセントを占めています。
 本村南方は、標高1,984メートルの月山と、さらに標高1,462メートルの葉山がそびえ、それらの山々を源にする銅山川と赤松川が村を貫き、やがて母なる大河最上川に合流し、村の中心部清水地区の美しい田園地帯をゆっくりと流れています。
 村の中央部を南北に走る国道458号に沿って、27の集落が点在しており、山村としては珍しく、広々とした台地が各処にあり、農耕地や酪農地として利用されています。
大同2年の開湯以来1200年の歴史をもつ肘折温泉郷は、数度にわたる爆発を繰りかえした肘折火山のカルデラの部分に当たり、周囲は比較的岩肌の多い山々で、独特の景観を呈しています。
 肘折温泉よりさらに南進すると、地蔵倉洞窟や大規模なブナ林などがあり、温泉客の格好の散策コースとなっています。
参考資料:「大蔵村ホームページ」より
村のシンボル
  ◆村の花 「りんどう」  ◆村の木 「ブナ」



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